チクリ・ピオニエーレ 初中級ペーシングレッスン
昨年10月のバランスレッスンへの参加以来10か月ぶりですが、チクリ・ピオニエーレのレッスンにビジターで参加してきました。今回は初中級ペーシングレッスンです。
今回のレッスンのテーマは集団で快適に走るための作法やマナーということで、強度はそんなに強くありません。コースはお店のある一宮から西に向かい足守川沿いを北上。R429で黒谷ダムの横を登り、吉備新線に合流。少し下ってのち、金陵GCの西のアップダウンで空港に出て、県道61号を下り、一宮にもどる約50キロ(500mUP)を約2時間30分(実走行2時間)で走りました。ちなみにコースの8割程度が僕にとっては初見のコースでした。
今回の参加者はオーナーの藤原さんを含めて8人。4人ずつの二組に分かれてスタートしました。設定強度はロングライドイベントで完走を目指すレベルくらいで、平坦はおおむね30キロ程度。登りは斜度にもよりますが、景色を堪能できる程度の強度といえば伝わるでしょうか。
途中、足守など3か所で停止し、そこでは各区間でのグループごとの状況の確認と、問題点についてのレクチャーが行われました。僕はといえば、登り区間で先頭に出たときに踏み過ぎることなどを指摘されました。再スタート時にはグループのメンバーの一部を入れ替えも行われます。また、レッスン終了後は一宮のお店での振り返りも行われました。
今回の参加の目的は、最近は慣れたメンバーや自分の顔の利くメンバーで走る機会ばかりで、悪い意味で集団走行がマンネリ化していると感じたため、外の空気を吸うことで自分の技術の見直しと引き出しを増やすことが目的でした。実際、このレッスンの集団では道路幅をより有効に使うことでの安全確保や交差点の処理など普段とは大きく違うところがありました。また往々にして先頭を牽く人にぶら下がっているだけになりがちな後続も後方の安全確認や状況の伝達などの役割を持ち、それらが連動することによって集団がひとつの生き物であるかのようにスムーズに進んでいくことを目標としていました。もっとも初中級レッスンですので、参加者それぞれにまだ課題があるようで、僕自身もいくつもミスをしていますし、レッスン中も色々考えたり試行錯誤もしました。そのせいかレッスン終了後、体力的にはあまり疲労感はありませんでしたが、頭には結構な疲労感を感じました。
レッスンで教わったことがいきなり身につくわけではないので、徐々に消化しながら取り込んでいきたいと思います。特にボイスサインの出し方についてはタイミングの面で得るところがあったのと、声の出し方でいろいろ思うところがあるので、まずはここから試行錯誤していこうと思っています。
2019/07/14 第10回中山カートコースクリテリウム
48歳と131日
スプロケットで言い訳を考えた
集中力の低下の理由の一つは前夜の寝不足。前日から便秘気味だったせいか、夜中に3度もトイレに起きるという頻尿が原因だが、こればっかりは体調(と加齢)なのである程度しかたないと考えておきたい。
もうひとつ、常用している12-25t(11s)ではなく、11-28t(11s)のスプロケットで走ったことも理由の一つではないかと考えている。それぞれの歯数構成は下記の通り
話をもどそう。
16t/18tがないことによる違いを見るために、今日のコースと同じコースを12-25tで走ったデータでタイムの近いデータを探した。
固定ローラーでフレームは折れるのか、をお気楽に調べる
機動戦士ガンダムNT(ナラティブ)
1/11 長男、中学受験
今日は長男の中学受験だった。
付き添いで午後3時ごろまで大安寺中等教育学校にいないといけないので昨年末に買った草森紳一「随筆本が崩れる」を持っていった。草森紳一の名前は西牟田靖「本で床は抜けるのか」でその死の状況と死後の蔵書の扱いが印象的だったので覚えてはいたものの、いままで著書を読んだことはなかった。それがひと月ほど前の朝日新聞の書評欄で「随筆本が崩れる」が文庫化されたと取り上げられていて、その印象的な表紙をみてこれは読まなければと思って手に入れた。
ネット的巷ではその偏向的な報道で話題になることが多い朝日新聞だが、こと書評に関しては取り上げる冊数も多くジャンルも広いので重宝している。最近だと角幡唯介「漂流」の書評を読んで角幡の本だけでなく早稲田大学探検部がらみや角幡の紹介する本を読むようになった、その中でも入院中に読んだ増田俊也「木村政彦はなぜ力道山を殺さなかったのか」は圧巻であった。
「本が崩れる」は本、野球、煙草を題材にした随筆3篇を主として構成されているのだが、その中で印象に残った言葉がある。「本は、なぜ増えるのか。買うからである」がそれだ。あたり前のことを言っているだけなのだが、マロリーがなぜエベレストに登るのかと問われて「そこにエベレストがあるから」と答えてそのエベレストで死に、草森紳一もその蔵書の山の中で死んだことを重ねてしまうと、当たり前の言葉でも印象的に感じてしまうのだ。
随筆、と呼ばれるものを読んだのは教科書の枕草子以来だと思うのだが、この「本が崩れる」は草森紳一の溢れかえるような知識ゆえだろうか、若干の関連性を残しつつも話題は脱線ギリギリで飛びまくり、それ故に読む者の脳髄を刺激するような魅力があるものだった。その魅力は次に読む草森紳一の著書の物色を始めるには十分なものだ。
面接を終えて出てきた長男に、試験は楽しかったかと聞いた。「楽しかった」と長男は答えた。結果が駄目でも試験を楽しむことができたのなら、人生には無駄にはならないだろう。そもそも瞬間においては無駄でも、人生にとって無駄なことなど何もないのだが。