冬亭夢裏の閑居宮

世界征服の道、いまだ半ば

機動戦士ガンダムNT(ナラティブ)


※ネタバレを含みます。

 1月13日、中学受験を終えた長男の慰労目的で「機動戦士ガンダムNT(ナラティブ)」を一緒に見に行ってきた。岡山県内では倉敷のMOVIXで、しかもこの時期は1日1回しか上映していない(しかも夜7時からだ)。おそらく1人なら見に行くことはなかっただろう。

 ある程度の事前知識はあったものの、想像以上に違和感、それも嫌悪感混じりのそれが残る作品だった。原作者を同じくする「ガンダムUC」同様、「逆襲のシャア」クライマックスのサイコフレームの共鳴現象=サイコ・フィールドの発生を軸線とするストーリーであり、ガンダムUCを「超科学」的とするならば、このガンダムNTはオカルト的とするのが適当ではないだろうか。

 そもそも、「逆襲のシャア」はそれまでのアムロとシャアの軌跡があったからこそギリギリ成り立つ作品であったと理解しているのだが、そうであってもクライマックスのサイコフィールドには、映画を見て35年経過する今でも違和感を感じている。その違和感の原因を物語の核となるテクノロジー(オカルトをテクノロジーと呼ぶのであればだが)として扱う「ガンダムNT」は当然ながら逆襲のシャアに感じる違和感をさらに上回るもの…嫌悪感を感じさせるものであったということだ。
 「逆襲のシャア」の次の劇場公開作「機動戦士ガンダムF91」を僕は好んでいるのだが、その理由は登場人物にキチガイが少ないことと、予定されていたTVシリーズが現実化せず、そのかわり(というわけではないのだが)に登場した長谷川裕一の「クロスボーンガンダム」シリーズの明朗快活さ故だと思っていたのだが、「ガンダムNT」を見たあとではサイコフレームというオカルトな物が登場しないのも理由なのだと感じた。

 オカルト的なものを棚に上げるとしても、永遠の命を求めるがゆえに、何人(おそらくは千〜万人となっているはずだが)殺してもなんとも思わない。この「なんとも思わない」も超然としているとかではなく、何も感じない…理解できないとしか思えないミシェルの態度であるとか、それを指摘はするものの、指摘するだけで終わってしまうダマスカスの軍人たちであるとかに、なにか中身のないものを見せられている感じを受けた。また、(いつものように)個人のエゴが事件の大きな原因となっているのだが、以前と違ってそのエゴが自体が稚拙であり、そのエゴが狂気をまとうのではなく、幼稚さから生まれたのではないかと思わせるところは、残念と感じるとともになにかが劣化したと感じるところだった。

 いままで積み上げてきたものの地層を理解せず、その表層だけで作られた映画なのではないだろうか、「ガンダムNT」は。